珈琲の香り、ゆっくりとたちのぼる湯気、洗練された美しいしごと、えもいわれぬ心地よい空間。
私が喫茶店と珈琲に魅了されてからこれまで、幾度となくカウンターにひとり腰掛けて、珈琲がぽたぽたと落ちてゆくゆくところを見てまいりました。
ぴしっとした佇まいのマスターに対する憧れもありました。あまり見過ぎてもいかがなものだろうか、と、凝視したいところをぐっとこらえてちらり、本を読んでいるふりをしながらもちらり、結局ついじいっと魅入ってしまうこともしばしばありました。
とにかく私は珈琲を美味しく点てる業を盗みたかった。喫茶店という場所も魅力的でしたが、なにより私は珈琲が好きで、いつでも好きな時に自分で美味しい珈琲を点てられたならどんなに幸せなことか、と日々考えておりました。
朝に昼に夕に、時には深夜にも気の赴くままに自宅ひとり喫茶開店。湯を沸かし、ネルの世話をして、珈琲豆をガリガリと粗く挽き、ゆっくりと湯を落とす。
カップを温め、さて、ようやく一息つけます。プロの仕事には及ばずとも、だんだん珈琲がよくなるのが楽しかった。
家族の為にもよく点てました。私の母は珈琲が苦手で一日に一杯しか飲めないと言っていたし当然珈琲に対する興味も希薄でしたが、いつのまにか私の淹れる珈琲で喜んでくれるようになりました。
いつも好きなことを一生懸命やっていたけれど、だからこそ忙しない日々を送っていた私にとっての珈琲とは、言葉では言い表せない何か、癒し、とも少し違う、力強く、でも肩の力が抜ける様な…、むつかしいけれど安堵、という言葉が一番しっくりきます。
そうですね、多分、私に安堵をもたらしてくれるもの。それくらい寄り添ってくれるものになっていました。
これは何年か前の話で、私が日日食堂と出逢うよりもずっと前のことです。
私は当時熱心に打ち込んでいたものがあったのですが、あるとき限界を迎え、心身ともに弱り切ってしまったことがありました。
これは人生の分岐点である、と、弱々しくも勇気を振り絞って立ち止まり、久しぶりにゆっくりと呼吸をした時、やはり寄り添ってくれたのは珈琲であり、そんな時に出逢ったのが日日食堂でした。
ここは珈琲屋じゃないし、私は料理が出来ない。それでもここだと何故か私のこころが強く訴えました。そして驚くべきことに、日日食堂のみなさんは料理の経験はおろか、年齢も極端に若く、学歴すらろくにない私を受け入れて下さいました。左利きの私は右手で包丁を覚えるところからのスタートでした。
それはもう燦々たるもので、右も左も分からない私を一から育ててくれた日日食堂のみなさんには本当に御足労お掛けしたと思います。
そして少しずつですが成長しながら学びで充実した日々が続き、今現在私は日日食堂で珈琲を任されています。
私も共に創り上げてゆく側に立たせて頂いてることを本当に有り難く感じております。
出来ることなら今すぐに、今より百倍美味しい珈琲を点てたいです。その為に日々実験、研究しておりますが実際のところすぐにはっきり変わるものではないのです。
私は兎と亀なら十中八九、亀だと言われる性分かと思います。
少しずつではありますが日々美味しくなっていくことは必ずお約束します。
あのころは全く思ってもみなかった未来です。ただ、誰かの為に珈琲を点てることの幸せだけは当時からわかっていたように思います。
私は今日もここまで足を運んでくださった誰かのために、ふと頬が緩むような珈琲を点てます。
分不相応な望みかも知れません。あなたが今古今と日日食堂に立ち寄る理由の一つになれたなら、と、切に願うのであります。